とつん、とつん、と杖の音が響く。そのすぐ後ろをAの小さな靴が、ぱたりぱたりと追いかける。振り返れば花鳥の里はもうすっかり遠くにあって、光る煙のようにぼんやりと浮かんでいる。Aの靴は砂埃にまみれて白く、右の足首にはいつの間に出来たのだろう、3センチ程の創傷が赤く走っていて、歩くたびに時折ぴりりと痛む。怪我に気付いた老人は、いかにも医者らしく
「治してやろうか」
などと声を掛けたが、Aは首を振って断った。
老人は不思議そうな顔をして質問を重ねた。
「どうして?ただ消毒薬を塗って、絆創膏を貼るだけだ。大してしみることもない」
「治してほしくないから」
Aの返答は至極簡潔なものだった。そうしてその会話はそれきりだった。
それからは老人と共に、数日歩くことを繰り返した。不思議と腹は空かず、食事をとったとしても一日に一回だった。野草や獣を獲って食べ、一息ついては旅を再開した。老人は食事の時も無言で、ただAの表情を観察するかのように眺めているばかりだった。Aもまた、自分から口を開くことは控えていた。野草の苦味だとか、獣の生臭さだとかは、回数を重ねるうちに殆ど気にならなくなっていた。
方角からすれば、里に辿り着くまでの道を引き返しているだけのはずなのに、辺りの景色が随分と様変わりしている事にAは少なからず驚いていた。行きの時は、単に気付かなかっただけなのか。いま歩いている所は丁度小高い丘をふたつ越えた道で、坂を下れば野花の綺麗な草原が広がっているかと期待していたが、眼前に広がっているのは不毛を感じさせるような広大な荒地であった。大小粒の不揃いな、ごつごつとした岩が転がっており、過去に干ばつでも起きたのだろうか、地面にはおどろおどろしい亀裂が稲妻のごとく幾重にも走っている。
上空を見上げると、心なしか太陽に陰りが見え、少しずつ空が灰色に浸蝕されているのが分かる。遠くで聞こえるのは鴉の鳴き声だ。Aは『屋根付きの場所』にいた頃、このけものの獰猛な鳴き声を何度も耳にしていたことを唐突に思い出した。辺りには民家とも廃墟ともつかぬような、錆びかけたトタン板で出来たバラックがまばらに建てられていて、Aの纏っている服よりも遥かに汚れているような、穴だらけの布が旗のごとく、板や窓の隙間からひらひらと風に揺れている。
――わたしは、夢でも見ているのだろうか?
ふと、自分の足跡を確認したくなり、背後を振り返ると、そこでAは思わず「あっ」と声をあげた。歩いてきたはずの道――緑の美しかったはずの丘はどこにもなく、深い沼の底のようにどんよりと淀んだ空の下に、真っ赤な色をした山が、黒い煙を吐きながら轟轟と燃えているのが見える!
「も、燃えて――」
足を一歩、丘の方向へ踏み出そうとした瞬間、真白い靄が分厚いカーテンのように視界を覆い、それきり丘も炎も姿を消してしまった。
「気にすることはない、進め」
Aの心中を読み取ったのか、老人が足を止めてこちらを振り返った。彼の声は酷く落ち着いていた。もしかすれば、過去にもAのような子供を何度も連れ歩いたことがあったのかもしれなかった。仕方なくAは彼の跡を追った。荒れ地の奥には何やら大きな建造物が幾つも見えた。
「あれは何」
とAが訊くと、老人は杖をつきながら
「風車だ」
と答えた。目を凝らすと確かに、その建造物は羽根をゆっくりと掻き回しているようだった。その光景は鴉の鳴き声を聞いた時と同じように、Aにどこか懐かしさを感じさせるものだった。
老人の足は、歩き出して5軒目の、他に比べて一層崩れかけているバラックの前で止まった。しかし意外と建物自体は頑丈らしく、扉は固く閉じられており、割れた窓ガラスの奥は見渡すことの不可能な暗闇が広がっている。中に人がいるのかも不明瞭だ。
老人は皺だらけの、枯れ枝のような右手を出して、窓ガラスの奥へと突っ込み、
「時計塔行きの切符を二枚」
と、嗄れ声で呟いた。
Aは息をのんでその様子を見詰めた。間もなく老人の右手がゆっくりと戻され、掌には二枚の、白い色をした紙切れが握られていた。何やら文字が記載されていたが、Aの知らない言語であった。
「行くぞ」
老人は何事も無かったかのように歩を再開し、Aに背を向けた。Aは慌てて後を追った。