「…時計塔」
しばらくして老人はぽつりと言った。
「色彩の国は、あの時計塔の中にある」
Aは驚いた顔で老人を見詰めた。絵本の中で見たシキサイの国が、あんなおどろおどろしい洞窟のような塔の中にあるなんて!赤茶色のレンガには幾つも亀裂が走っていて、枯れかけた灰色の蔦が蛇のように何重にも絡まっている。空は今にも雷が落ちてきそうな暗さだ。
「…色彩の国は死者の国。死者は時計塔の中で眠り続ける。その色に自らの魂を託して…」
老人の口は急に饒舌さを増し、呪文のような一言一句がAの耳を捉えて離さなかった。
「死者…?」
「そうだ。死者だ」
老人の指が塔の方角を示した。筋力が衰えているのか、それとも何かしらの感情を織り交ぜたものなのか、手の全体が小刻みに震えていた。
「あの時計塔の中には、沢山の扉がある。扉の奥の小部屋には死者が一人ずつ眠っている。
お前のなすべき事は、死者の扉を順に開けて、全ての死者の語りを聞くことだ
――ただし、一つだけ心に留めておかねばならない事がある。それは、何があろうとも自分の名を必ず『セライル』と述べること。『セライル』でない者が塔の中に立ち入った、と死者が判断した瞬間、お前の魂は永遠に奈落の底を彷徨うことになる」
奈落の底、という言葉にAは小さく身震いした。暗闇や痛みなぞ、『屋根つきの場所』で過ごした記憶に比べれば大したことのないような気がしたが、燈火を得る機会を一生逃してしまうことは、彼女にとって最大の喪失だった。
老人の話は続いた。
「その代わり、全ての死者の話を聞くことが出来れば、お前の望みは叶えられるだろう――透明病も、その先の燈火も、思いのままだ」
「………」
それが嘘か真実か、などを問う必要は無かった。喋り終えた老人が杖を勢い良く地面に突き刺した瞬間、轟と大気の唸る音が響いて、荒れ地だったはずの土は一瞬にして雪まみれの大地へと変貌し、空には氷のように光る無数の星が浮かんだ。
「行け」
衝撃に立ち竦んだAを叱咤するように、老人の鋭い声が響いた。
「…時計塔の扉を開けよ。時計塔の扉を開けて、眠る死者の声を聞け。
おまえがこの塔を出る頃には、全ての氷は溶け、春の命が芽吹いているだろう。それまで、振り返らずに進むのだ、セライル…」
セライルは走り出した。雹は空から矢のように降り、彼女の背中を冷たく刺した。 しかしその痛みを感じる間もない程に、セライルは夢中だった。息をきらして漸く立ち止まった時には、蔦の絡まる扉は目の前にあって、彼女を試すように聳え立っていた。