――例えば、リストカットへの依存をやめられない人がいたとして、彼あるいは彼女に「自分を傷付けるのはやめなさい。そんなことをして何になる」などと言葉を向けるのは、全くナンセンスな真似だと思う。なぜなら、彼らは他ならぬ自分自身を傷付けたいから手首に刃を走らせるのであって、その嗜虐的感情の矛先が、決して他人やモノに向けられているわけではないからだ。
傷付けたいから、傷付ける。
痛みたいから、痛ませる。
そうして少しずつぼろぼろになって、枯れ枝のように解体されていく自分の姿を、自暴自棄だとか孤独のなせる業だとか言って指をさされるのは、いささか疎ましく感じられる。自分のからだを大切にしなければならない義務を、一生背負わなければいけないんだろうか。だとしたら何て窮屈な生命だろう。
きっと世界は広いから、他の意図を持ちながら自傷をする人だって、沢山いるに違いない。けれど、少なくとも今のあたしはそういう考えだ。
「叔母さんから連絡があったから」と一言嘘をつき、別れの挨拶もままならない状態で、足早に店を出た。「待てよ」と背後から聞こえる真人の声を、コートを盾にして振り払い、冷たい雨の走る渋谷の空の下に出た。開ける視界と喧騒。傘を忘れたあたしは小走りで路地を駆けた。灰色のパーカーの生地が、あっという間に斑模様となって重みを増していく。もうきっと一生、傘なんて買うことはないだろう――髪が濡れようが肌が冷えようが、これからは一切関係がないのだから。
ぴしゃり、ぴしゃりと、水溜まりを踏む度に音が鳴る。ジーンズの裾が黒くしみを作り、淀んだ冷たさが自分の足先を侵食していく。黒いエプロンを纏った、キャッチの群れも、今日は声をかけてこない。派手なコートを着た女の集団が、迷惑そうに顔をしかめて道を避ける――あたしは必死だった。いまの自分を、脱皮を遂げた自分を絡めとろうとするあらゆる柵(しがらみ)が、うっとおしくて堪らなかった。脳裏に黒いハイエナの姿が浮かんだ。今にもあたしを窒息させてやろうと、企むように笑っていた。
「――バカ!」
ハチ公口の手前まで来た時に、ぐいと上着のフードを掴まれ、振り返るとずぶ濡れになった真人がいた。大きく見開かれた両目があたしを捉え、唇は心なしか青みを帯びていて、わなわなと震えている。
「ひとりにしない、って言ったろ」
開いた口から涙混じりの声が聞こえて、それと共にぽたり、ぽたりと雨粒が彼の髪の先から落ちた。あたしはどういう訳か、彼と目を合わせているのが辛くなったので、視線を床に落として項垂れることをした。潰れた紙タバコの幾つも散らばる地面の中に、土色に汚れて擦り切れたズボンの生地が見えた――あたしを必死で追いかけてきたものだから、きっとどこかで転んだのだ。傘を差しもしないで。
「……ごめんね」
力なくそう言って、彼の頬を包むように自分の両手をあてた。水滴の残る皮膚はひんやりと冷たかったが、あたしのそれよりは幾分か温かい心地がした。
「また少し経ったら、練習にも顔を出すから。暫くそっとしておいて」
それは勿論嘘だったが、この他に掛けるべき台詞をあたしは一つも思いつくことが出来なかった。真人は両目を潤ませたままゆっくりと頷いたが、それが涙のせいなのか雨粒のせいなのかは分からなかった。歯痒さや罪悪感の混じった感情が澱のように胸の中を埋めていき、あたしの皮膚は再びむずがゆさのような不快感を覚えた。
それからあたし達は、どちらからともなく無言のまま歩き出して、針のように滴り続ける雨の束を全身に受けながら、改札へと向かった。他人行儀のような会釈をして、JR線の奥へ足を踏み出し、後はもう振り返らなかった。
「ひとりの寂しさを分かってくれる人と一緒にいたい」。
真人はそう言ってあたしを選んだ。それが単なる同情だけを帯びた響きではなかったから、あたしもその台詞に縋ることをした。事実あたしも彼も非常によく似た人間同士だった。空っぽの部屋やぴりぴりした人間関係が嫌いで、夜が来れば煙のように湧いてくる漠然とした不安に息苦しくなる。唯一違う事があるとすれば、あたしは「ひとり」で、彼はそうではなかった、という事くらいだ――。