2025-06-13から1日間の記事一覧
――例えば、リストカットへの依存をやめられない人がいたとして、彼あるいは彼女に「自分を傷付けるのはやめなさい。そんなことをして何になる」などと言葉を向けるのは、全くナンセンスな真似だと思う。なぜなら、彼らは他ならぬ自分自身を傷付けたいから手…
センター街の路地を無言のまま数分歩いて、行き付けの店の奥へと向かい、腰を降ろす。初めてここへ来た時と、変わり映えのしないメニュー。客足もまばらで、あたし達の他には二、三人くらいしかいない。しかしそんな所が気に入って、通い続けていた――この人…
その日は久しぶりに夢を見て、それが何とも奇妙な、寝覚めの悪いものだったから、朝が来てもあたしの身体は死んだ魚のように硬直していて、皮膚はひんやりと冷たかった。 あたしは砂漠の中にいた。身体はまったく動かず、手指ひとつ恣に出来ない。あたしは一…
自宅に帰ると叔母がいて、カップに入った紅茶を啜っている最中だった。私が病院へ出掛けている間に、自分で棚からティーバッグを取り出して淹れたのだろう、亡き祖母の愛用していたと言われるアッサムの茶葉が湯気と共にゆらゆらと立ち昇っている。 「佳織ち…
駅前の商店街を抜けて左に曲がり、大きな車道沿いに真っ直ぐ進んだところに、目当ての病院がある。巨大な駐車場からはエンジンの唸る音が聞こえ、向かいの公園からは、母親に叱られでもしたのか、幼い子供の泣き声が響いてくる。それらをくぐり抜けるように…
髪を染めるという作業は、想像していたよりずっと呆気ないものだった。 連日の寝不足のせいか、施術の間はずっと舟を漕いでいて、薬品の鼻につくような独特の臭いに顔をしかめた事を除けば、非常に記憶が曖昧だ。カラーリングが完全に終わったときに漸くパチ…
Aは少しばかり唇を噛んで俯き、未発達な両の手を腰の横で強く握りしめた。『とうめい病』が恐ろしい病であることを、彼女はとうに知っていた――『屋根付きの場所』に時折訪ねてくる、椅子に座る音のうるさい、宝石だらけの女が、その病気について憎々しげに語…
「何をしているんだい」 ふと、今にも消え入りそうな、弱々しい嗄れた老人の声がAの背中に向けられた。Aは振り向いて答えた。 「手紙を捨てているの」 「――ほう」 老人は興味深そうな返事を洩らすと、しみと皺だらけの右手を、伸ばし放題の白い顎髭に当てた…
Aは自分の本名を知らない。まだAが「屋根付きの場所」にいた頃に、油のしみの付いたエプロンを巻いた女が何やら、がなり立てるような声で自分の名前を叫んでいた記憶がある。しかしその輪郭をなぞろうとする時には決まって、エプロン姿の女の血走った眼付き…
それからというもの、あたしは家から「追放」を食らうたびに、この秘密の海岸へ来ることを繰り返した。ハルヤ、と名乗った金髪の男の子はいつもふらりと現れて、時々澄紀やレンリといった友達も連れて来てくれた。 初めのうちは挨拶をするだけでも声が震えて…
「………」 あたしは驚きと警戒を込めた視線で目の前の男の子を見た。彼の瞳はルビーのように真っ赤で、今にも吸い込まれてしまいそうな感覚がした。 躊躇いがちに手を伸ばし、形のよく整えられたサンドイッチを掴む。ふわふわしたパンの感触が掌に伝わり、まだ…
覚えている限り一番古い記憶は、初めて殴られた時のことだ。頬骨のところが鈍く凹むような感覚がして、じんじんと皮膚が熱くなる。遠くでキーンと響く音がして、あ、これが耳鳴りなのか、とその時他人事のように思っていた気がする。 「あんたが悪いのよ」 …
題名を見て、一体どういう趣旨だ、と訝しむ人がいるかもしれない。私自身も正直よく分からない。 どうも自分は昔から、「未知の言葉」に出会った際、その言葉の意味を「発音の似た既知の言葉」と同一視してしまう癖があるらしい。それも、完全なる無意識下で…
死者のことを思い出すのは圧倒的に夜であることの方が多い。例えば、私は就寝しようとベッドに入った時、中々寝付けなさそうだと感じた場合は、そのまま慌てずに目を閉じて、自分が深海の底にベッドごと沈んでいく姿を妄想する。そういう時、暗い海水の中を…