Discommunication Disco

寂しい星の寂しい人へ

リザーディカル・ラヴ⑤

 センター街の路地を無言のまま数分歩いて、行き付けの店の奥へと向かい、腰を降ろす。初めてここへ来た時と、変わり映えのしないメニュー。客足もまばらで、あたし達の他には二、三人くらいしかいない。しかしそんな所が気に入って、通い続けていた――この人混みの多い街で、静かに時を過ごせる場所なんて、どんな高級ディナーよりも貴重なのだ。

 「注文決めた?」

 「ドリップコーヒーを一杯」

 「飯はいいのか」

 無言のまま頷くと、真人はどこか神妙な面持ちを崩さないまま頷き返して、軽い仕草でウェイトレスを呼んだ。

 「ドリップコーヒーのMサイズと、レモネードをひとつ。それから、クロックムッシュを一人分」

 「…レモネードとか」

 「何だよ」

 「いや、相変わらず子供舌だな、と思って」

 「うるせえ」

 「クロックムッシュが何か、知ってる?」

 「………」

 「先に言っておくけれど、食べないからね、”わたし”」

 そう伝えると、真人は不安げな顔をしながら――しかし決してその感情の中身を言語化しようとしないまま――「そうか」と小さく呟いて、メニューを脇へとどけた。

 この男の、無駄に察しが良く、それでいて「領域」に人一倍敏感なところが、時にあたしを救うし、時に焦燥と嫉妬の渦巻く奈落の底へ突き落としてくる。着古した、しかしどこか上品さの感じられる青いセーター。千円カットで切り揃えられた短髪。そして何より、生まれ持った人の良さ。サークルに入ってすぐに、男友達から先輩女子まで、沢山の人に囲まれていた。

 ………

 「俺さ、片親なんだ」

 彼とまともに話したのは二年の九月、丁度この喫茶店に二人で入った時が初めてだった。

 「生まれた時から、母親がいなくて。肺癌かなんかで死んだらしい」

 「………」

 「親父も馬鹿で、それから煙草の吸う量がめっちゃ増えたらしくてさ。もうアホすぎるだろ、どうしてお袋の死因になるようなものにハマり込んでんのかって、自傷行為みたいなもんだろ。もう習慣化しちゃってるから、今更どうしようもないけど…」

 「それで」

 彼の言葉を遮るように口にしたのを覚えている。飲みかけのカップの液面に視線を落として、正面の顔を見ないようにしながら。

 「それで?」

 「それでわたしにどうしてほしいの、って」

 「………」

 「肉親がいない寂しさに同情してほしいの?それとも、自分よりも可哀想な状況にある人の話を聞いて安心したい?」

 「違う――」

 ………

 珈琲の液面が、ゆらり、と大きく波立った。

 「…病状は」

 「病状?」

 「爺さん、入院してるんだろ」

 「もってあと一ヶ月だってさ」

 もっと早く死にそうだけれど、と溢したら「不謹慎だぞ」と窘めてきた。

 「どうするんだ、亡くなったら」

 「基本的には元の家で一人暮らしかな。時々、叔母さん達が面倒見に来てくれるらしい――学費も助けてもらっているし。今も週二で家に来てる」

 「随分面倒見がいいんだな」

 「私達は家族だ、って言ってくるんだよ、あの人たち。子供がいないからずっと、そういう存在が欲しかったんだって」

 「…へえ」

 感情の読み取れないようなトーンで返答し、真人はパンの先端を一噛みしてから続けた。

 「お前はどう思ってるの、その発言に対して」

 「…別に」 相手に見えないよう、パーカーの裾を強く握った。

 「ありがたいと思ってるよ、拒絶されるよりもずっとね」

 「ふうん」

 それから暫くの間、相手は無言のままレモネードのグラスをストローで掻き回す動作を繰り返していた。黄色く透き通った液体の氷が、カランと音を立てる。あたしはコーヒーカップの取っ手に右手を戻して、彼の細い指を見詰めていた。不思議と空腹は感じなかった。

 「俺さ、今はこんな状況だから、お袋と兄貴の生活を支えなきゃいけないけど」

 「うん」

 「兄貴が試験に受かったら、全部助けるつもりだから。それまで少し待っていて」

 ストローを握っていたはずの掌が、テーブルの上へ差し出された。おずおずとその手の上に自分の左手を置くと、それは間もなくゆっくりと握り返されて、顔を上げれば真っ直ぐに透き通った両の目がそこにあった。

 あたしはゆっくり息を吸って、尋ねた。

 「…ありがとう、って言うべき?」

 「別に」

 彼は少し微笑んで言った。

 「そう言って楽になるなら口にすればいい」

 「………」

 カチ、カチ、カチ。

 壁際の細長い時計が、ひっきりなしに秒針の音を響かせている。六角形をした古時計。薄暗い店内の天井には、弱々しいジャズが素通りするばかり。あたしの呼吸は先程よりも浅くなっていた。まるで深海の中にでもいるような、重苦しい時間。

 知らず知らずのうちに、右手でジーパンのポケットの中をまさぐっていた。指先に当たるのはセブンスターの箱だ。

 覚束ない手付きでそれをテーブルの上に滑らせると、真人は案の定「また吸うのか」と険しい顔をして言った。

 「そんなに良い物なのか、煙草って」

 「さあね」

 「身体に悪いだろ」

 「そうよ」

 白い煙をひとつ、大きく吐き出してから付け足した。

 「身体を悪くしたいから吸ってるの」

 真人の両目が大きく見開かれた。

 カチ、カチ、カチ。

 秒針の音は先程よりも音量を増したようだった。あたしはライターを持ったままの左手を自分の膝の上に戻して、その肌の爬虫類のような冷たさを確かめた。コーヒーはすっかりぬるくなって、暗い湖のように濁っている。

 

続く