センター街の路地を無言のまま数分歩いて、行き付けの店の奥へと向かい、腰を降ろす。初めてここへ来た時と、変わり映えのしないメニュー。客足もまばらで、あたし達の他には二、三人くらいしかいない。しかしそんな所が気に入って、通い続けていた――この人混みの多い街で、静かに時を過ごせる場所なんて、どんな高級ディナーよりも貴重なのだ。
「注文決めた?」
「ドリップコーヒーを一杯」
「飯はいいのか」
無言のまま頷くと、真人はどこか神妙な面持ちを崩さないまま頷き返して、軽い仕草でウェイトレスを呼んだ。
「ドリップコーヒーのMサイズと、レモネードをひとつ。それから、クロックムッシュを一人分」
「…レモネードとか」
「何だよ」
「いや、相変わらず子供舌だな、と思って」
「うるせえ」
「クロックムッシュが何か、知ってる?」
「………」
「先に言っておくけれど、食べないからね、”わたし”」
そう伝えると、真人は不安げな顔をしながら――しかし決してその感情の中身を言語化しようとしないまま――「そうか」と小さく呟いて、メニューを脇へとどけた。
この男の、無駄に察しが良く、それでいて「領域」に人一倍敏感なところが、時にあたしを救うし、時に焦燥と嫉妬の渦巻く奈落の底へ突き落としてくる。着古した、しかしどこか上品さの感じられる青いセーター。千円カットで切り揃えられた短髪。そして何より、生まれ持った人の良さ。サークルに入ってすぐに、男友達から先輩女子まで、沢山の人に囲まれていた。
………
「俺さ、片親なんだ」
彼とまともに話したのは二年の九月、丁度この喫茶店に二人で入った時が初めてだった。
「生まれた時から、母親がいなくて。肺癌かなんかで死んだらしい」
「………」
「親父も馬鹿で、それから煙草の吸う量がめっちゃ増えたらしくてさ。もうアホすぎるだろ、どうしてお袋の死因になるようなものにハマり込んでんのかって、自傷行為みたいなもんだろ。もう習慣化しちゃってるから、今更どうしようもないけど…」
「それで」
彼の言葉を遮るように口にしたのを覚えている。飲みかけのカップの液面に視線を落として、正面の顔を見ないようにしながら。
「それで?」
「それでわたしにどうしてほしいの、って」
「………」
「肉親がいない寂しさに同情してほしいの?それとも、自分よりも可哀想な状況にある人の話を聞いて安心したい?」
「違う――」
………
珈琲の液面が、ゆらり、と大きく波立った。
「…病状は」
「病状?」
「爺さん、入院してるんだろ」
「もってあと一ヶ月だってさ」
もっと早く死にそうだけれど、と溢したら「不謹慎だぞ」と窘めてきた。
「どうするんだ、亡くなったら」
「基本的には元の家で一人暮らしかな。時々、叔母さん達が面倒見に来てくれるらしい――学費も助けてもらっているし。今も週二で家に来てる」
「随分面倒見がいいんだな」
「私達は家族だ、って言ってくるんだよ、あの人たち。子供がいないからずっと、そういう存在が欲しかったんだって」
「…へえ」
感情の読み取れないようなトーンで返答し、真人はパンの先端を一噛みしてから続けた。
「お前はどう思ってるの、その発言に対して」
「…別に」 相手に見えないよう、パーカーの裾を強く握った。
「ありがたいと思ってるよ、拒絶されるよりもずっとね」
「ふうん」
それから暫くの間、相手は無言のままレモネードのグラスをストローで掻き回す動作を繰り返していた。黄色く透き通った液体の氷が、カランと音を立てる。あたしはコーヒーカップの取っ手に右手を戻して、彼の細い指を見詰めていた。不思議と空腹は感じなかった。
「俺さ、今はこんな状況だから、お袋と兄貴の生活を支えなきゃいけないけど」
「うん」
「兄貴が試験に受かったら、全部助けるつもりだから。それまで少し待っていて」
ストローを握っていたはずの掌が、テーブルの上へ差し出された。おずおずとその手の上に自分の左手を置くと、それは間もなくゆっくりと握り返されて、顔を上げれば真っ直ぐに透き通った両の目がそこにあった。
あたしはゆっくり息を吸って、尋ねた。
「…ありがとう、って言うべき?」
「別に」
彼は少し微笑んで言った。
「そう言って楽になるなら口にすればいい」
「………」
カチ、カチ、カチ。
壁際の細長い時計が、ひっきりなしに秒針の音を響かせている。六角形をした古時計。薄暗い店内の天井には、弱々しいジャズが素通りするばかり。あたしの呼吸は先程よりも浅くなっていた。まるで深海の中にでもいるような、重苦しい時間。
知らず知らずのうちに、右手でジーパンのポケットの中をまさぐっていた。指先に当たるのはセブンスターの箱だ。
覚束ない手付きでそれをテーブルの上に滑らせると、真人は案の定「また吸うのか」と険しい顔をして言った。
「そんなに良い物なのか、煙草って」
「さあね」
「身体に悪いだろ」
「そうよ」
白い煙をひとつ、大きく吐き出してから付け足した。
「身体を悪くしたいから吸ってるの」
真人の両目が大きく見開かれた。
カチ、カチ、カチ。
秒針の音は先程よりも音量を増したようだった。あたしはライターを持ったままの左手を自分の膝の上に戻して、その肌の爬虫類のような冷たさを確かめた。コーヒーはすっかりぬるくなって、暗い湖のように濁っている。