Discommunication Disco

寂しい星の寂しい人へ

リザーディカル・ラヴ③

 自宅に帰ると叔母がいて、カップに入った紅茶を啜っている最中だった。私が病院へ出掛けている間に、自分で棚からティーバッグを取り出して淹れたのだろう、亡き祖母の愛用していたと言われるアッサムの茶葉が湯気と共にゆらゆらと立ち昇っている。

 「佳織ちゃん、お帰り」

 ワインレッドの唇が三日月型に微笑んで、梟のような丸い目があたしの方をぎょろりと捉えた。

 「ただいま。…幸恵さん、いらしてたんですね」

 声が上擦らないよう、必死で腹に力を入れた。

 「事前に一声掛けてくださったら、お菓子もご用意したんですけれど。すみません」

 「いやねえ、今更そんな事、水臭いわ」

 叔母はひらひらと手を振りながら苦笑した。

 「どうせもうすぐ、家族になるのに。佳織ちゃんは気を遣わなくていいのよ。

 ――ところでどうしたの、その髪」

 ちょっとイメチェンしてみたくなって、とあたしは曖昧に笑ってごまかした。ふうん、まあ大学生ってそんな時期もあるわよね、と叔母は興味なさそうに頷いて、再びカップの中の液体を口にする。薬指に嵌められたオパールの指輪が、弱々しい蛍光灯に照らされて、ぬらりと光る。隣の椅子に置かれているのは、シャネルのロゴの入った鞄――ブランドに疎いあたしでも分かる、かなりの高級品だ。

 叔母の視線はあたしから離れて、部屋の床――数日前の新聞や雑誌、箪笥にしまい損ねた衣類の目立つ、年季の入った居間の床を、サーチライトのごとくぐるりと見渡し、やがて浅い溜め息を一つついた。

 「今日は押入れの中を少し整理したのだけれど、この辺も片付けなきゃねえ――お父さんたら、お母さんがいなければ家の事、なんにもしようとしないんだから。整理整頓の癖は”最後まで”身に付かなかったわね」

 「…そうですね」

 ――あいつがおらんけん、片しても怒るやつがいねえと、張り合いがのうて――。

 祖父の家に住み始めて間もない頃、床の散らかり具合に文句を言ったとき、彼はそんな事を言って笑っていた。祖母はあたしの両親の事故よりも先に、大腸癌だか何だかで亡くなっていたから、あたしは写真でしか彼女の顔を見たことがない。額に深い皺の刻まれた、随分と気難しそうな佇まいのひとだったが、祖母の話をする祖父は決まって楽しそうな、それでいて酷く寂しそうな雰囲気を漂わしていた。片付けの時も例にもれず、切なそうに眼を細めるものだから、それきりあたしも何だか罪悪感のようなものを覚えてしまって、以来最低限の掃除は自分がやるようにしていた。

 「そうだ」

 沈黙を破るようにして叔母が椅子から立ち上がり、テーブルの上に置かれた、二つの白いお椀型の容器を指さして言った。

 「これ、近所のポテトサラダ専門店で買ったやつなの。まだオープンしたばかりだけれど、ネットでの評判がとても良いのよ。あと、晩御飯のおかずに、焼き豚を作ってきたから、冷蔵庫から適当に取り出して食べなさい」

 「…ありがとうございます」

 「じゃあ、私はそろそろ帰るわね。また面会の時に、今後の事とか相談しましょう」

 叔母はシャネルのバッグを無造作にとって、まるで誇らしげであるかのような笑みを浮かべながら、玄関を出ていった。

 見送りが終わり、部屋に一人残されたとき、どっと肩のあたりに疲れが押し寄せてきて、思わず床に座り込んでしまった。

 ――たぶんあの人は、他人に何かをしてあげる事で、自分のプライドを満足させたいんだな。

 机の上のポテトサラダを見ながら、ぼんやりと考える。

 ――とくに、あたしみたいな、「不幸」扱いしやすい人間は、格好の餌食なんだろう。

 もうすぐ家族になるのに、か。

 そこから先はあまり考えたくなかった。頭の中を真っ黒な絵の具で塗り潰したみたいに、わざとらしくもやもやとさせて、あたしは覚束ない足取りで冷蔵庫へと向かった。千切られたレタスと焼き豚の入った、丁寧にラップのかけられた平皿を取り出すと、それを無造作な手付きでレンジにぶち込んで、買い置きしておいたカップヌードルと一緒に食べた。味なんてしなかった。ただ、油の塊が身体の中へ入っていく、その重苦しさだけがあたしの胃に残った。ポテトサラダは捨てるつもりだった。

 42℃の熱いお湯に浸かって、ドライヤーで髪を乾かすと、幾分あたしの気持ちは先程よりも落ち着いたようで、首から肩にかけて重くのしかかっていた独特の苦しさも消えていた。

 すっかり馴染んだな。

 ファーストピアスの嵌められた、穴の開いた耳朶を軽く摘んで、その冷たい感触を確かめる。これがきっと明日からも、あたしの新しい日課へと昇華するのだろう。

 スマートホンを開いて、「器楽愛好会」と書かれたLINEのグループを開いた。書くべき言葉は既に決まっていた。

 「本日限りで、サークルを退会させて頂きます。今までお世話になりました」

 送信ボタンを押す前に、深呼吸しようと開きかけた口が、待てよ、と中途半端なところで止まった。スマホの画面に微かに映った金髪のあたしが、諭すような視線で見つめてきた。

 もうあたしには、そういう一切の”なぐさめ”は、必要ないんだ。

 それもそうだな、とあたしは小さく頷いた。だからすぐに指をボタンから離して、LINEのウィンドウを閉じ、黒い画面と化したスマホをクッションの上に放り投げ、大きく欠伸をした。そろそろ寝るか。明日から大学にも行く気がなかったが、まあ気分の赴くままに起きたり寝たりすればいいだろう。そのまま植物のように、あるいは倒れた祖父のように、朝が来ても目覚めなくなることを、心の隅に祈りながら――。

 「明日夜8時、渋谷で待ってるから」。

 既読をつけることなく、LINEを閉じる直前に削除されたその文面が、ベッドに入って目を閉じた時にふと、あたしの頭を過った。送り主のよく着ていた服の色だとか、細い輪郭だとかを、脳が勝手に描き出そうとするものだから、何だか鬱陶しくてたまらなくなって、胸を掻きむしりたい思いで布団を強く被り、そこから先はただ深い眠りの底へと落ちていった。

 

続く