駅前の商店街を抜けて左に曲がり、大きな車道沿いに真っ直ぐ進んだところに、目当ての病院がある。巨大な駐車場からはエンジンの唸る音が聞こえ、向かいの公園からは、母親に叱られでもしたのか、幼い子供の泣き声が響いてくる。それらをくぐり抜けるようにして、敷地に足を踏み入れる。
緑の豊かな病院だ。沈みかけの太陽の光を反射して、プラタナスの樹の葉がオレンジ色に煌めく。木陰のところでニット帽を被った青年が、車椅子に腰かけた状態で、家族と思われる中年の夫婦と何やら会話をしている。その近くでは花壇の白い縁に座った格好で、老婦人がぼんやりと公園の方角を見詰めている。
「カオちゃん……カオちゃん、だよね?」
聞き覚えのある声が背後からして、振り向くとワンピース姿の、髪の長い少女が立っていた。
「…来てたの」
「うん。今さっき面会してきたとこ。それよりどうしたの、その恰好」
「別に。ちょっと気分を変えてみたくなって」
「へええ」
相沢唯乃は子犬のような目を一杯に見開いて、小さく首を傾げた。さらり、とカールの掛かった細い茶髪が艶めきながら揺れて、シトラスの爽やかな香りが仄かに立ち昇る。
「びっくりしたよ。まるで別人なんだもの。カオちゃんってロック系の趣味もあったんだね」
「…ロックが好きなわけじゃないけど」
「そうなの?」
「うん。ユイちゃんは、これから帰るの?」
あれこれと詮索される事を避けたかったので、半ば強引に話題を逸らした。
「そうだよ。明日の練習に備えて、譜読みをおさらいしておかなきゃ」
またアケミさんに怒られちゃったら怖いもん、そう言っておどけて笑う。その笑顔に相槌を打つように、あたしも少しだけ笑って、立ち去る彼女の後ろ姿を見送った。ほーう、と長い溜息が自然と出る。見た目も心も綺麗なひとと話しているのに、あたしの胸の奥にあるフィルターはすっかり壊れているのだろうか、もやもやした澱のようなものが少しずつ溜まっていくから、こうして呼吸を長めにとらないといつか酸欠になってしまうのだ。
折角脱皮を遂げたのに、これじゃあんまり意味ないな。
などと自分を責めながら再び歩き出し、手早く受付を済ませてエレベーターに向かう。503号室――先程彼女が訪れていたであろう病室と、まったく同じ番号だ。
部屋の中は静かだった。横並びになったベッドが3台、その真ん中の所にあたしの祖父は寝ていた。眉間に皺を少しばかり寄せて、すー、すーと寝息を立てている。周りに置かれた座椅子の上には荷物も見当たらず、いまの時間帯で面会に来ているのはあたしだけのようだった。心電図の音だけが規則的に刻まれていて、まるで時計のようだと思う。秒針よりも遅くて不安定な、生命のリズム。1か月前と比べて、あたしはこの空間にすっかり慣れてしまったな、と感じる。その証拠に、排泄物の鼻につく臭いも、腕に刺さったままの点滴の針も、殆ど気にならなくなった。
「おじいちゃん」
乾燥しきった紫色の唇を見詰めながら、そっと声を掛ける。目の前の老人は答えない。縫い付けられた糸のように閉じられた目。染みだらけの黄ばんだ肌。
「もって1ヶ月といったところでしょう」。
もともとあたしは、嫌な予感を当てることが得意だったし、その結果もたらされた悲劇を「やり過ごす」ことについても上手かった。丁度十五年前くらいに、両親が交通事故で死んだ時も、大して泣き喚く真似もしなかったし、代わりに得たのは慢性的な夢遊病に似た、ふわふわした感覚くらいだ。だから今回医師から言われた祖父の余命についても、あまり淡々と受け流したものだから、却って叔父や叔母を始めとした周りを驚かせてしまった。
だって、ただそれだけの事だ。
それだけの事。ひとが、それも老いた人間が一人、脳卒中で倒れた。何の珍しさもない、ありふれた出来事だ。祖父が死ぬことなんて、同居を始めた時からじゅうぶんに想定してきたことだ。
両親の時と違うことをひとつ挙げるならば、それは恐らく、変身をしたいという強い衝動の存在だろう。祖父が居間で倒れた時から、あたしは身体中が痒くてたまらなくなり、一晩中眠れない日が続いた。酷いときには蕁麻疹さえ出た。まるで肌のあらゆる細胞が、脱皮をしたい、と疼いているかのようだった。
「おじいちゃん、あたしは今日からもう大丈夫だよ」
ほら、と小さなピアスを人差し指で軽くつついて揺らしてみる。祖父は答えない。あたしも続ける言葉を失って、すぐ無言になる。座椅子に腰を降ろして、ぽたりぽたりと落ちる点滴の袋を、まるで雨宿りをする旅人のような気分で、じっと見つめる。いつもそうやって時間は過ぎていく。